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間違いを正す心

 当道場には神殿が有ります。神棚が有り、それを中心とした大きな神殿となっています。普通何かの道場であれば、そこに礼をする対象の物が有りますが、現代の合気道道場は床の間スタイルのものが多いように思います。
 当道場を見学に来られた人の中には「合気道は宗教なのですか?」と質問してきた人もいますが、もしかするとそういう人の家に神棚はないのかもしれません。神棚を置くということはそこが何かの宗教の普及活動の場ということではなく、本来日本人にとって生活の一部のようなものだと思います。
 当道場で床の間スタイルではなく神殿となっているのは、常に自分より上の存在を意識し、上達したと思っても謙虚な気持ちを忘れず、自分の行ってきたことの中に間違いを発見したら素直に間違いを認め、正すことを行うためであります。このことは段位が上がる程、また、自分が指導的立場として年月を重ねれば重ねるほど難しくなっていきます。中には自分の技の間違いを正当化するために「私はこういうスタイルの合気道、他の人はまたこういうスタイルの合気道、色々な合気道があっていいと思う。それぞれがそれぞれを認め合うことが合気道の精神だ。」と言う人もいますが、私の考えは違いまして、合気道を武道として捉えるのか捉えないのかということです。
 合気道が武道でなく芸術あるいは手品のようなものであるなら、違った個性のものを「面白さ」という観点から個性として受け入れられる余地はあるでしょう。しかし武道であるなら、ある場面で殺されるようなスキがある技はそのことを気付いた時点で個性ではなく間違いとして認識する必要があります。上に立つ人の責任はこういう時に有り、上に立つ人が間違いを正さないことにはその下の人間は正しようがないのです。
 そういうわけで、当道場では武道として稽古するために神殿を置いております。
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隠れた動き

 合気道では「正面打ち入身投げ」「突き小手返し」というように、受けの人が攻撃し、それに対して取りの人が技を掛けるという稽古が主体になっています。ここでいう「正面打ち」というのは、攻撃の第一段階が正面打ちや突きということであって、決してそれで終わりということではありません。「片手取り」というのも最初の接点が手首ということであって、武道として稽古する場合、その先のことを想定できる合気道家でなければならないと常々思います。
 稽古の第一段階が「手首を掴んでくる」という、痛くもかゆくもないことだからと、呑気にしているとスキが出来てくるわけです。手首を掴んだその先にはあらゆる突き、蹴り、または押さえる、さらに掴んだまま投げる、押さえているところに多人数がやってくるなど、様々な場面を想像することが必要で、私などはそういうことを想像することが稽古の楽しみの1つとなっております。
 合気道の稽古には隠れた動きというのが沢山あり、そのことに気付く人もいれば、いつまでも気付かない人もいます。気付かない人には気付くように指導するのが指導者の役目だと私は思います。
 当道場の稽古では、その人の稽古の習熟度によりますが、だんだん慣れてきた人で、それでも隠れた動きに気付かない人に対して怪我をさせることは行いませんが、「隠れた動きに気付かないことによる恐怖」は体験していただくようにしております。あくまで心理的に一瞬のヒヤリというものを感じていただくようにするわけですが、そういう体験をした人は大体合気道の面白さにはまります。ここで重要なのは怪我をさせないということです。その上で武道の真剣味を感じられる稽古こそ、開祖大先生の技に近づくことにつながるのではないかと、晩年の大先生の映像を観る度思います。

自然体の良さ(その3)

 自然体についていくつか書きましたが、「自然体の精神性は理解できるが、それでも構えた方がスキが無いのでは…。」という意見もあるかもしれません。しかし自然体であっても状況に応じて相手との位置関係が斜めのようになる場合は当然有り、また、入身するということはその瞬間が半身になるわけです。当然技が決まった瞬間などは半身になりますので、自然体から瞬間的に半身の時が有るものの、すぐに自然体に返るということになります。
 私の知っている合気道では、入身を行うのに、実は半身から入身するより、自然体から入身する方が速くてスキが無いのです。例えば正面打ち入身投げのように、相半身から後足から出ていくよりも、自然体から一歩前に出る方がすでに半歩分足が前に出ている分素早い攻撃に対して瞬間的に入身できるのです。「たかが半歩」と言うものの、その半歩の差が真剣勝負では生死を分ける重要な距離と言えますし、相半身から入身する場合、少なくとも後足が前足の真横に移動するまでは体を開くことが出来ませんが、自然体からはすぐ開けることになります。
 このようなことを私が述べることができるのは、私が熊野塾道場で身をもって体験し、学んだからです。熊野塾道場は、入身するということに対して、真剣に取り組むことができることについて、右に出ることのない道場だと思います。
 したがって、私の言うところの自然体とは、「気が抜けたスキが有る自然体」ではなく、「気が充満したスキが無い自然体」を指します。あくまでスキが無い状態を目指しているのです。

自然体の良さ(その2)

 断っておきますが、私は他の道場のやり方を否定するわけではありません。「私は自分の信じた道を進む。」ということです。

 自然体で合気道を行うということは、「普段の姿そのままで即合気道」ということです。したがって、合気道の技に入るのに間が空かない、つまり速く、しかも普段の状態なので動きやすいと言えます。動きやすいということは、体に無理がかからないということでもあります。
 しかし一方で、長い間構えることをやっていると、その人にとって、構えることが「その人の合気道にとっての自然体」になるようです。いや、なります。私もそうでした。そして初めて熊野塾道場で引土先生から「構えてはいけない。」と教えていただいた時は戸惑いました。それでも構えを解くのにそんなに時間はかかりませんでした。初めての熊野塾体験から元の道場に戻ってから早速構えを行わない稽古を行っていたら、「ちゃんと半身に構えろ|」と言われました。(このことがその後私が独立するきっかけになっていくわけです。)
 独立してからも講習会など元々の道場やそのグループの人と稽古する際はちゃんとどちらかの足を前に出すようにしております。私のように構える稽古を経験した者は、今でもとりあえず猫を被ることができます。困るのは、私の元で合気道を始めたこの彩新道場の人たちは、同じ場面で構えることができないことです。構えることを覚えた人が構えることを解くことはできても、その逆はなかなかできないということです。そして私の門下生の中の一番高段位の者は、「やはり自然体の方がやりやすいです。構えるのはやりづらいです。」と、その理由を今ここで私が書いているこの記事の10倍以上のボリュームで力説することがあります。
 確かにその者が言うように、自然体の方がやりやすい理由は多々あります。だからといって、構える稽古を行っている道場で、1人だけ構えない稽古をやり続けるなどという自己チューでは人として問題ありです。やはりその道場の先生の教えは尊重すべきで、それに従わないのは非礼であります。やはり構えない稽古をするならそういう人たちでまとまるべきと言えます。
 自然体で行っているおかげか、彩新道場で稽古している人たちは、膝を痛めることに対して無縁に近いです。

自然体の良さ(その1)

 私の道場では自然体で稽古しております。あえて構えない。手は勿論、足もどちらかの足を前に出すとかいうこともしておりません。私がこのような指導をしている背景として、お世話になっている熊野塾道場で自然体の稽古をしていて、そのことに心底納得がいったからです。
 私が合気道を始めた道場では、手の構えはなかったものの、足は相半身、逆半身といったものがあります。そこで10年間構える稽古をした後で熊野塾で今は亡き引土先生に教えていただき、その時「構えてはいけない。」ということを色々と例を挙げて教わることができました。そして構えない稽古を行っている期間の方が遥かに長くなりました。
 大先生は晩年の映像を観れば自然体で行われていることがわかりますが、引土先生はその晩年の大先生の合気道を再現できる人として右に出る者がない存在でした。自然体というのは大先生の合気道でいうと最新のものであり、素晴らしいものですが、現在そのように稽古する道場は少ないように見受けられます。
 確かに一般に普及する上ではどちらかに構えている方がわかりやすいと思います。しかし合気道の「敵を作らない」という理念との整合性を考えれば、「体の構えではなく、心構えが大切である。」という考えこそ理に適っていると言えるでしょう。
 構えると相手も構えます。合気道は相手を強くするのではなく弱くするのであります。自然体こそ相手を刺激せずいつの間にか制することのできる状態であろうと私は考えております。